« お昼のニュース | メイン | 超ハードボイルド短編連載小説−ネコルゴ13 第一話「猫たちの賛歌」 »

September 01, 2002

連続短編小説「鰐−あるいは初夏の夜の風とともに」

お前は己の兄弟を引き渡した。必ず報いがあるぞ。(アルベール・カミュ:
「客」)

それは5月のある夕方のことだった。時計は6時を24分ほど回った
ころで初夏の風が心地よい時間だった。僕が2階の書斎で「ねこ山
日記」の執筆をしていると、突然2階のベランダから窓を開けて音も
なく鰐がやってきた。鰐というやつははるか古代からこのように突
然やってくるものなのだ。鰐は僕を横目でちらりと見たが、すぐに
関心なさそうに座布団の上にあぐらをかいて座り、ポケットからジ
タンを一本取り出して面倒くさそうに火をつけた。鰐は何も言わず
に僕に一本薦めたが、僕は健康上煙草を吸わない様にしているので
その申し出を丁重に断った。鰐は何も言わず、そのジタンをまた箱
の中にしまうと窓の方を向き、煙を2回吐き出した。

外からは散歩をする人達の声や、通り過ぎる車のエンジンの音、そ
してケンカするネコたちの鳴き声が聞こえてきては消え、僕と鰐が
言葉を交わすことなく小一時間が過ぎていた。外に目をやるともう
空は紫色になっていて、暗くなるまでにあと5分もかからないだろ
うと僕はぼんやり考えていた。「君は最近のグローバリズムについて
どう思う?」と鰐が突然僕に尋ねた。僕は次回の「ねこ山日記」の
原稿の内容について考えを巡らせていたので少しばかりふいをつか
れてしまった。鰐というやつはいつもこのように突然人(あるいは
猫)に問いを投げかけるのだ。僕は最初彼の質問の意図を図りかね
た。鰐とグローバリズムとの組み合わせはそれほど僕にとってはミ
スマッチな組合わせだったのだ。しかし、ここで彼の質問をもう一
度聞き返すことは彼の沽券にかかわると思ったので僕は適当に答え
ることにした。

「そうだね、社会が便利になるのはいいことだと思うけれど、その
反面そのシステムの恩恵を受けることのできない人(あるいは猫)が
いることも本当だし、一長一短あるんじゃないのかな。」と無難に答
えておいた。すると鰐は「ふん。」といい、煙草を消す仕草をしたの
で僕は慌てて1階に下りて主人が禁煙を始める去年まで使っていた
灰皿を1階から持ってきた。鰐は何も言わずに煙草をもみ消すとまた
ポケットからジタンを1本取り出すとマッチで火をつけた。そして一
口深く吸い込んで煙を長い時間かけて吐き出すとこう言った。「する
と君はグローバリズムには否定的なんだね。」僕は少し考えた。確か
に僕はグローバリズムを肯定しているわけではない。かと言って、
完全に否定しているかと言えばそうでもない。グローバリズムは言
わば少数の人(あるいは猫)の幸福のために多数の人(あるいは猫)
の幸福を少しばかり制限しようというシステムであり、またどのよ
うなシステムでも全ての人(あるいは猫)をハッピーにすることは
できない。全てのシステムは相対的なものなのだ。僕が漠然とそん
なことを考えていると鰐は、いらいらした様子で煙を2回吐き出し
た。僕は話題を変えようと、「コーヒーでも飲むかい?」と聞くと、
鰐は2本目のジタンをもみ消しながら「ああ。」と投げやりに言った。

僕用の小さなマグカップと鰐のための大きめのマグカップにコーヒ
ーを入れて2階の書斎に戻ると鰐は書棚に並べてある本の背表紙を
眺めていた。それらの本は僕が執筆用に近所の黒○書店で購入した
ものだ。「グローバリズムにしろ、他のシステムにしろ完璧なシス
テムがない以上、既存のシステムに改良を加えながらよりよい方向
に社会を持っていくと言う姿勢が大事なんじゃないのかな。」と僕は
鰐に言った。その答が果たして鰐の質問の真意に沿うものかどうか
僕には分からなかったが、何も答えないよりはましだろうと思った
のだ。「よりより社会ねえ。」と鰐は窓の外に目をやりながらつぶや
いた。鰐というやつははるか昔からこのような目で遠くを眺めてき
たのだ。「すると君は」と鰐が口を開いた。「すると君は観念的なト
ポフォリアが脱構築化されることによりデノテーションを実存させ
ると言いたいんだね。」と鰐が言った。僕にはよく分からなかった
が、「いや、それはポスト構造主義的なノマドをダブル・バインデ
ィングすることによってディスクールを複雑系化させると言う意味
だ。」と答えた。すると鰐は、安心したように「そうか、僕は君の著
作を読んで君は傲慢なやつだと思っていたがどうやらそうでもない
ようだな。僕は君を誤解していたようだ。」と言った。

僕は何が彼を安心させたのかよく分からなかったが、とりあえず彼
の機嫌がよくなってほっとした。そして僕と鰐は一言も会話を交わ
さずにコーヒーを飲み続けた。鰐が「邪魔して悪かったね。そろそ
ろ帰るよ。」と言って席を立ちかけた。そして彼は書棚のある本を見
つけるとその本を凝視した。「どうしたんだい?」と僕が尋ねると、
彼は一冊の本を書棚から取り出して「これは一体?」と僕に尋ねた。
彼が書棚から取り出したのは僕が頭を休める時に読もうと思って古
本屋で見つけたつ○義春の「ね○式」だった。「ああ、それは僕が暇
な時に読もうと思って買ったんだ。」と僕が言うと、彼の形相が見る
見る変わっていった。「なかなか面白いよ。貸してあげるから君も読
んでみるかい?」と僕が言うと、彼は「そら見ろ!やっぱり君は傲
慢なやつだ!」と言って持っていたマグカップを大きな音を立ててテ
―ブルに叩きつけた。「これ以上傲慢なやつと話すことなんかない!」
と鰐は言い残して来た時と同じように2階の窓から外に出て行った。

僕は一人(あるいは一匹)残されたまま、小さいマグカップに残っ
たコーヒーを飲み干し、鰐が出て行った窓から外を眺めてみた。も
う外は真っ暗で人々(あるいは猫)の声もしなくなっていた。そし
て時々入り込んでくる初夏の太陽の暖かさがまだ残った風を受けな
がら、僕は「ねこ山日記」の執筆に戻った。

つづく

投稿者 nekoyama : September 1, 2002 05:54 PM