« ねこ山日記番外編のお知らせ | メイン | ねこ缶倶楽部会則 »

June 30, 2003

ことば、この未知なるもの

創造力が権力を奪う。(五月革命の時の落書きより)

やあ、僕ねこ山。

言うまでもなく僕はねこであるが、「ねこ山日記」の執筆のため便宜上日
本語を使っている。小さいときから日本語に囲まれて育ったので日本語
は僕の母語のようなものだ。

しかし、昨今の日本語の乱れからか(あるいは僕がねこであるからなのか)、
妙な表現を耳あるいは目にすることが多い。それらは若者が昨今使う解読
不可能な暗号のような流行ことばの類ではなく、むしろ昔からある表現で
ある。

たとえば、「人間らしい」という表現がそうだ。これはよく笑ったり、泣い
たりと感情を表現するときにその行為を肯定的に表現する形容詞であるが、
よく考えるとこれはかなりおかしいのだ。

人間は言語という手段を極めて高度に発達させることにより、具体的な
事象を説明することに始まり、抽象的な概念を把握することを可能にし
た。例えば、自然科学的な事象においても「雨」や「風」はともかくと
して、「積分値」や「対偶」といった概念はおよそ言語なしには理解され
ることはなかったはずだ。すなわち、言語こそ人間を人間たらしめてい
るものであると言ってもいいと思う。

しかし、しかしだ。「人間らしい」という表現が使われる状況というのは
これとは全く様相を異にするのである。悲しいときに泣いたり、楽しい
ときに笑ったり、頭に来たときに怒ったり、はたまた大げさなジェスチ
ャーをして友愛を表現してみたりするのは、このように感情をストレー
トに表現するというのはどう考えても「動物らしい」ことなのだ。

ねこがお腹がすいたときに足元をうろつきまわって離れなかったり、う
れしいときにのどをゴロゴロ鳴らしたり、腹が立ったときにねこパンチ
をしてみたりするのは、「ねこらしい」行為すなわち「動物らしい」行為
といえる。

逆に「人間らしい」行為とはむしろ悲しいときには「僕は悲しいです。」楽
しいときには「僕は楽しいです。」頭に来たときには「地獄に落ちろ、ベイ
ビー。」と言ったり、友愛を表現するために「やあ、僕は君とは友達だから
武器なんか持ってないよ。」といって武器を持たない証拠として握手を交わ
す行為なのだ。言語という自ら発明した道具を駆使して感情を説明すると
いう行為こそが「人間らしい」と言えるはずだ。

というとこまで考えたところで僕ははたと思い当たった。もし、この表現
が人間でなくサルどもが創作したものだったらどうか。サルは動物の中で
最も人間に近いが人間ではない。進化のベクトルとしてはもろに人間の方
を向いている。すなわち、人間になりそこねた動物なのだ。ということは
彼らは人間に対して強烈なコンプレックスがあるに違いない。「人間になり
たいなあ。でも、体中に毛が生えてるからポー○・スミスのスーツなんか
着なくてもいいし、足でモノが掴めちゃったりするからナ○キのスニーカ
ーなんか履けないしなあ。あーあ、俺も寒い寒いとか言ってユ○クロで買
い物をしたり、足でモノなんか掴めなくて不便だなんて思って見たいよう。」
というコンプレックスだ。

彼らがそう考えても不思議ではない。そしてある日、「そうだ、それなら
僕らの行為を人間の行為に格上げしよう。悲しいときに泣いて、怒ったと
きに噛み付いて、旧来の友人に会った抱き合う行為を『人間らしい』とい
うことにしてしまおう。」と思ったに違いない。かくしてこれらの行為はす
べて「人間らしい」という形容詞でくくられることになったのだ。

このように言語というものは思いもよらない事実がその語源になっている
ことがある。ことばを仕事の道具にしている僕としてはこれはこころして
かからねばならない。

投稿者 nekoyama : June 30, 2003 06:41 PM